FOCUS ON BRAVEKINGS

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【FOCUS ON BRAVEKINGS #7】「チームに1%でも貢献したい」を貫いた選手生活を全うし、指導者としての新章へ

いつもブレイヴキングス刈谷へご声援いただき、誠にありがとうございます。

ブレイヴキングス刈谷に関わる「ヒト」に焦点を当て、表面の部分だけでは決して見えてこない、その想いや考え、行動の原点にフォーカスしインタビューやコラムで紹介していきます。

 

 

いつも大きな声でチームを鼓舞し、試合では相手選手に魂をぶつけるかのように挑んでいく菅野純平選手。

11ヶ月のリハビリを経て、再びコートに戻ってきた。復帰までの日々について質問をすると、「すみません、思い出してしまって」と大粒の涙を流した。出口の見えない過酷な日々、それを支えたものは何だったのか。時折言葉を詰まらせながら、菅野選手はゆっくりと語った。

 

11ヶ月のリハビリを乗り越え、3月に復帰

 

―思い出すのは辛いと思いますが、けがをした時のお話を聞かせてください。

 

菅野:2年ほど前に初めて肩を脱臼しました。脱臼をしたことのある選手が競技を続けると9割くらいはまた外れると言われているのですが、幸いにも2年強の間は再発しないでプレーを続けることができていました。

2024年4月22日に2回目の脱臼をして、実はその時点で僕は2024-25シーズンをもって引退しようと考えていたので、手術をして残り少ない現役生活をリハビリに費やすよりは、保存療法で早く復帰ができる選択をしました。

ドクターやトレーナー、多くの方のサポートを受け、僕としても後悔のないリハビリを4ヶ月間行って、8月下旬にサポートスタッフも僕も万全だろうと自信を持って復帰したのですが、チーム練習に合流した2日後にまたスポーンと抜けてしまって。その翌週に手術をしました。

すみません、少し待ってください。思い出してしまって……。

 

―こちらこそ、申し訳ないです。今の涙からも、菅野選手がどれほどの困難を乗り越えてきたのか伝わります。特に復帰した矢先の再受傷は精神的に堪えますね。

 

菅野:けがをしたのが8月の終わりだったので、残りの選手人生は10ヶ月。ここからまた4ヶ月の保存療法を行なっても、また4度目の脱臼をするのは目に見えている。そうであれば、残り2ヶ月になってもいいから、しっかりと選手としてチームに貢献できる身体になって戻ってきたいと手術に踏み切りました。

正直に言うと、もう試合に出場することなく終わるんだろうなと思っていました。それでも、試合に出る選手の練習相手になることでチームの力になれればと考えていました。

 

 

―2025年3月20日のアルバモス大阪戦で復帰を果たしました。約1年弱のリハビリを乗り越えた先にはどんな景色が見えていたのですか。

 

菅野:トレーナー・メディカルスタッフや、僕がリハビリ中に心が折れそうになった時に「頑張れ」と支えてくれた人たちの顔が思い浮かべばよかったんですけど、ゲーム展開が緊迫していたので、しっかりと試合を進めることに必死で、感慨に浸るような余裕は全くなかったです(笑)。そういう気持ちになれたのは、試合が終わってからでした。

 

 

―先ほどリハビリの間に心が折れそうになったというお話がありましたが、11ヶ月間のリハビリで最も辛かったのはいつ頃ですか。

 

菅野:一番キツかったのは、手術の後の完全固定の状態から少しずつ動かせるようになってきた11月くらいですね。動かせるようになったと言ってもが、ハンドボール選手としての動きは何もできない。だからその間はひたすらバイクを漕いだり、できるトレーニングを120%の力でやろうと決めて取り組んでいました。でも、それが1ヶ月、2ヶ月と続くと精神的にキツくなってくる。

さらに追い打ちをかけたのが、リハビリメンバーに時々軽度のけがをした選手が入ってくるんですね。彼らは1週間とか、長くても1ヶ月くらいで復帰をしていく。一方で僕はあと数ヶ月以上リハビリが続く。考えが甘いのかもしれませんが、そうした状況も精神的に追い込まれていた僕にとっては辛かったです。

 

―その苦しい期間をどのように乗り越えたのですか。

 

菅野:その時期の僕は、周りにも隠しきれないほど様子がおかしかったと思うんです。異変に気がついたスタッフが気分を変えるために、「登山に行こうよ」と誘ってくれて。11月23日の琉球コラソン戦の朝に、帆山彦沢S&Cコーチ、門山哲也チームディレクター、重見夏輝マネージャーと4人で猿投山に登りました。試合の準備で忙しい中、試合に出ない僕のために時間を割いてくれて、本当にありがたかったです。

 

菅野:その後も、例えばトレーニングが5ブロックあるとして、最後のブロックを遊びの要素が入ったトレーニングにしてくれたり。“モノクロの世界”のまま一日のトレーニングが終わらないようにしようというスタッフの気遣いもあって、最後まで走り切ることができました。

 

―そのような苦しいリハビリを経て、得たものや学んだことはありますか。

 

菅野:比較的自分は「耐える」ということには強いと再確認できました。光のない吹雪の中を、コンパスを見ながら歩き続けるという状況でも、他の人より歩みを止めないで進んでいける人だなと。それでも、「このまま凍死してもいいや」と思う瞬間がありました。それがまさに、先ほどの登山に行った頃ですね。

 

 

チームのために1%でもできることがあればやり続ける

 

 

―2025年4月に今シーズンで現役を引退することを発表されました。先ほどのお話ですと、2回目の脱臼をした2024年4月の時点で、今シーズン(2024-25シーズン)をラストシーズンにすると決めていたのですね。

 

菅野:2023年の年末に2024年の6月で現役生活に区切りをつけたいとラース・ウェルダーHCに伝えました。その時に「吉野(樹)や杉岡(尚樹)のようにゲームの構成を決めていく選手だけでチームが作られているわけではない。菅野には来年もチームにいてほしい」と引き止められて、その使命を全うするために、もう1年続けようと決めました。だからけがをしてからも、ラースHCの期待を裏切ることはしたくないという思いでリハビリを続けることができました。

ラースHCが言ってくれたように、僕もコートに出ている選手だけが試合の60分を作るものではないと考えています。ベンチにも入れない時間が長かったですが、そのような状況でも、例えば声を出すとか、コートに出ている選手の背中を押すために僕にできることが1%でもあれば、それをやり続けたいと考えていました。

僕がバイクを漕いでいた場所は、コートで練習している選手からも見える位置にあります。僕が先の見えないリハビリを死に物狂いでやっている姿を見せることで、コートで練習をしている選手に『僕らも頑張ろう』と感じてもらうのが僕の役割だと思っていましたし、幸いにもこのチームはそういうことを感じられる選手が揃っているチームです。

けがをして辛い1年でしたが、チームから求められる役割を全うできたと感じたので、今シーズンで辞めたいという意向をあらためて伝えました。

 

―現役生活も残りわずかとなってきました。今はどのような心境ですか。

 

菅野:あまり実感は湧いていないのですね。でも、10年後に振り返った時に心残りがないように、今が人生の何章目かはわからないですけど、この章をきっちりと閉じられるよう頑張っています。

 

 

ハンドボール人生のハイライトは、指導者・チームメイトの言葉

 

―長いハンドボール人生を振り返って、ハイライトを3つ挙げてください。

 

菅野:一つ目は高校生の時です。僕は秋田県出身なのですが、高校1年生の時に秋田国体があって、韓国人コーチを招聘して高校へ派遣して強化しようという県の事業がありました。1年目と2、3年目は別のコーチだったのですが、2年生の時に1年目のコーチに久しぶりにお会いした時に、「君は確かに成長しているね。でも、チームメイトは君とプレーしていて楽しいの?」と言われたんです。当時の僕は、チームの中では一番上手くて、監督のような立場でチームメイトに「これをやれよ」「あれをやれよ」と言いまくっていたんです。僕が指示をすることでチームは強くなってはいたのですが、それはただの自分のエゴだったなと気づかされました。この経験は大きかったですね。

 

―気づいたことで、自分自身にどのような変化がありましたか。

 

菅野:それぞれの選手に得意・不得意がある中で、できない部分はコミュニケーションをとりながら補い合う。高校3年生のときはチームで助け合ってよい成績を残すことができて、本当の意味でのチームスポーツの楽しさを味わうことができました。

 

―続いて2つ目のハイライトを教えてください。

 

菅野:大学3年生の頃、教授に「実業団に行きたい」と伝えたところ、「君はアンダーカテゴリーの日本代表にも選ばれているから実力的には行くことができるかもしれない。ただ、今の君を見て、実業団チームは君をリクルートしないと思う」と言われたことですね。なぜかと聞くと教授は「企業が一人の選手を雇うのに、月々のサラリー+遠征費、会場費などで1年でおおよそ1000万円かかる。10年間所属すると1億円。君は面接で自分が1億円の価値がある人間だと証明できますか」と問われました。

 

―なるほど。覚悟を問われたのですね。

 

菅野:当時の僕はだいぶ天狗になっていたんですけど、その言葉で鼻がスパッと折れて、自分の中のスイッチが入って、運よくチャンスをもらい、トヨタ車体に入社しブレイヴキングスでプレーすることが決まりました。だから、リハビリをしている今年の僕にも1000万以上がかかっていると考えれば、試合に出られなくても、弱音を吐かずにできることをしなければならない。燃え尽きて灰になるくらいバイクを漕いで、自分の役割を全うしなければならないという話なんですよ。大学時代にその意識を持つことができたから、ここまで頑張れたというのはありますね。

 

―素晴らしいです。3つ目は?

 

菅野:吉野選手にかけられた一言です。彼が1年目か2年目の大同特殊鋼戦(現 大同PX東海)

で残り10分くらいまで東江雄斗選手(現 ジークスター東京所属)を全く止められず、好き勝手にやられていたんですね。その時に吉野が僕に「純平さんなら行けます」って声をかけてくれたんです。その時の僕は頭だけを使ってディフェンスしていたんですけど、吉野のその言葉が「考えすぎないで、自分の良い状態を思い出しましょうよ」と自分の立ち返るべきところに戻してくれたんです。その後、東江選手を止めることができて、吉野が点を取って勝つことができたんですけど、チームスポーツは楽しいなと再確認した瞬間でもありました。

 

4つ目も出させてもらってもいいですか。

 

―お願いします。

 

菅野:初めてプレーオフで優勝した時(2019年)の準々決勝vs豊田合成戦(26-25/前半12ー15、後半14-10)。相手の趙顯章選手にガンガンシュートを打ち込まれて、見せ場なく3点ビハインドで前半を終えました。誰に言われたか忘れたのですが、後半「ちゃんと彼に牙を剥けよ!」と喝を入れられて。趙選手は196cm、95kgある選手なんですけど、ディフェンスでアグレッシブなコンタクトを重ね続けることに集中し、最終的に趙選手を交代まで追い込むことに成功し、チームとしても勝つことができましたし、試合の勝敗ではないところで勝ったなと。ラースHCがよく言う「勝つ」はこう言うことなんでしょうね。

 

 

引退後はU12のコーチとして指導者の道へ

 

 

―引退後は4月より活動が始まっている「ブレイヴキングス刈谷U12」のコーチに就任することが発表されました。以前から指導者になりたいと考えていたのですか。

 

菅野:もともとトヨタ車体に入社した時に、何年か社会人経験を積んだら、地元の秋田に戻って教員になろうと考えていました。ただ、3、4年目くらいから試合に出ることができるようになってきて、こんなに充実している時期に辞めるのはもったいないなと思い、教員は何歳からでもチャレンジすることができるし、選手であることでしか経験できないことも多いと考えて、こうして今まで続けてきました。

 

―学校の先生は子どもの頃からの夢だったのですか。

 

菅野:父もハンドボール経験者で、学生選抜のキャプテンとして海外遠征にも参加していたそうなので、おそらく上手かったと思うのですが、祖父のいいつけを守って、実業団には進まず、実家に戻って教員になりました。父は僕には「自由に生きなさい」と大学卒業後も選手を続けることを後押ししてくれましたが、父からたくさんの愛情を受けながら育ってきた中で、教員という道は常に頭の中にありました。

 

―選手であることでしか学べないことがありますよね。そして、選手としての経験の全てが指導者として武器になりそうです。

 

菅野:本当にそう思います。先ほど話した吉野の声かけもそうですが、プレーの再現性を出す時に、「今のその感覚よかったね」という声かけを続けることによって、その時の自分の感覚が引き出しの中のいつでも手が届く場所に入って取り出せるようになります。その回数を増やしていくと、試合の中で同じようなシチュエーションになった時に、「練習のあの場面を再現できた」と自分の中に落とし込める瞬間があるんです。そうすると、ハンドボールがさらに楽しくなる。そういう気づきを子どもたちに与えられたらと思っています。

 

―教えることは楽しいですか。

 

菅野:おそらくこれからですね。彼らが花開いた時に嬉しいと思うのではないでしょうか。

おそらくU12の選手たちは、実業団の選手から学べることに価値を見出して入ってきてくれたと思うので、彼らが期待する以上のバリューを出せるように試行錯誤しているところです。

 

 

―ホーム最終戦とプレーオフ、現役生活の集大成に向けて、あらためて意気込みを聞かせてください。

 

菅野:チームとしては今けが人がいる中で、各選手が自分にできることをいつも以上に少しずつ出し合うことが求められていると思います。そういう意味で、チームの総合力が試されますし、チームとして成長したところにけが人が戻ってくれば、プレーオフではさらにいい戦いができるはずです。

さらにそこにみなさんの声援が加われば、それがブレイヴキングス刈谷の熱さにつながります。ぜひ一緒に熱狂の空間を作り上げましょう。

 

最後に、これまで多くのファンの方にお声がけをいただき、みなさんの気持ちが僕のエネルギーになりました。本当にありがとうございました。

 

取材・文/山田智子

2025/05/22